昭和44年9月11日 朝の御理解 中村良一
御理解 第12節
「神に会おうと思えば、にわの口を外へ出て見よ。空が神、下が神。」
観念的に分からして頂く神様。ね。観念的に、いー、感じたり、分かったりした神様では、えー、どうにも、おー、いわば、おかげにも繋がらないし、いわば、幸せに繋がることは出来ない。仏教の言葉の中に、一期一会と言うのがあります。私は、その、難しい意味があるらしいんですけれども、その意味は私には分かりませんけれども、まあ、あー、私流に、それを頂きますとですね。一期と言うのは、一生と言うこと。ね。一期の願いと申しますでしょう。一生一度の私の願いがという時に使います。一期、一期の願い。一期と書いておりますね。一期、二期、三期と言う。一期とは一期と書いてあります。ね。一会と言うのは、一つに会うとこうある。ね。会と言う字ですね。神に会おうと思えば、の会うです。一期一会。ね。その、おー、例えば、神に会いたいと思えば、庭の口を出てみよ、空が神、下が神と。これは、神を説明しておられるわけですね。ですから、その、観念的に分からせる、いわゆる、神なのです。だから、その神様を神様として頂けれる。なるほど、親神様だと分からせていただけれる。ね。そこに私は、この、一期一会があると思うんです。ね、昨日も、福岡の東さんのお母さんが、ご親戚の方をお導きしてからお参りして見えましたんですけども、ね。永年、合楽に椛目から、いわばもう、一番初めから、あちらはご縁を頂いておられる方ですもんね。椛目の、あー、早々の時代から、ご縁を頂いておられる。けれども、その、なるほど、まあ、お願いをする、おかげを頂くと言うような意味で、その、えー、椛目に、合楽にお引き寄せ頂いておられたんですけれども、本当に、神に会うたと言うか、言うのは、先日のあの、お参りの時でしたとこう言う。えー、十日ばっかり前にお参りして見えた。丁度、私は、四時の御祈念を終わって、えー、ここへ着かしていただいた。そん時に、えー、誰だったか知らん、お参りしよった方に、私は、今、四時の御祈念に御祈念をさして頂いてから、頂いたその感動と、ね。その方に聞いてもらいよるときに、丁度、おー、すぐ、その方の後の方の次に、お取次ぎを頂こうとして、そこに、後ろのほうに見えておった。ね。神様が、私共と、もう縁が初めに出来られるとき、ね。私共と、神様との出会いの時。ね。その出会いを、どれほどか神様が待ち望んでおられたことか。ね。その、出会うた時に、神様が感動まします。ここに一人、氏子が助かってくれると。いうならば、捜し求めておった親と子が、ね。巡り会うたような感動を、おー、感じられる。と言うような、私は話を、私も感激一杯で、ここで、此の方に話しておるのを、その後ろで東さんが聞いておった。初めて、私共が頂いておる神様を分からして頂いたと。迂闊にも、二十年間あまり、ずっと、金光様、天地の親神様と言うては来たけれどもです。ね。あの時ほど、感動した事はございませんでした。今でも家に帰って、あのときの事を思うと感動すると言う。私はあの、あー、神様が、あー、その氏子に出会われた時に感動なさる。私共には、その感動はないのですよね。ですけれども、その神様の心が分かった時です。私共が感動する。それだけ、今日、東さんに、今、お母さんならば、それだけずれておる訳です。ね。二十年近くと言う間ずれておる。ましてや、天地の親神様、私共の拝ましていただいとる神様が、教祖が、ここに説明しておられるように、神に会いたいと思えば、庭の口を外へ出てみよ、空が神、下が神と仰せられる。ですがこれは、やはり、観念の上の神なんです。神様。その観念の神様がです、神様が会うたその瞬間に感動まします、その感動が、私共が信心をさして頂いておってです。ね。東さんのお母さんじゃないけれども、ね。二十年もお参りさしてもらいよって、ああ言う感動をはじめて受けたと。私共が頂いておる、神様という神様は、そういう神様だと。言うのを、ね。その、二十年間のずれがある、神様の感動と氏子の感動と言うのは。そこから、家におっても、その事を思うたら感動するとこう言うておられる。ね。そこから初めてです。私は、親よ、子よと、色々な信心は、そこから生まれて来るんだと思うんですよね。合楽にご神縁を頂いて、四十年近くの間のことを、まあ、二、三十分間でしたけれども、ちょっと私が、忙しいことをしておりましたから、二、三十分間、その始めてお参りになったその方と、お話さして頂いておるうちに、東さんのお母さんが、いわゆる、言うておられるのに、その神様がね、そう言う神様だけが感動ましましたと。ね。東文江と言う人に、二十年、毎日毎日会われた。先生、初めて先生にお目にかかりました時に、先生が、東さん、あなたはね、大きい荷物を担いで、こう道を歩いておるようなものである。けれども、その荷物がね、こう、担い方が悪いもんですから、荷物がずんだれて、足に当たりよる。ずんだれて。だから、非常にその、歩くのにですね、歩き難い。東さん、一生懸命になりなさい。一生懸命になって、本気でその荷物を担う、背負う気になる。本気で、きりきりと、それを背負う気になったら、そう重たいものじゃない。それを、いわば、かろうて歩いていくのも、歩きよう、楽しゅう歩いていけれるんだ。本気でその気になりなさい、一生懸命になりなさいと、二十年前に言われた。これが私に対する、一番、一番初めに、親先生、あった時の、あれが御教えでございました。私が忘れとったけど、昨日、それを言われるんです。それなら、二十年近く、やっぱり、ずんだれたまま歩いてきていると言うこと。ね。神様が、一生懸命にならなければね、いわゆる、その神様を分かることは出来ない。しかも、その二十年間の間にですね。ああいう事もございました。こういう事もございましたと。以来、私は、こうやってお夢を頂く。そのお夢の中に、神様がこのような働きを下さいますと言う、まあその、おー、ご信心を頂くようになって、此の方のことを、その、思い出して、今日その事を話されて、本当に神様が、あなたに対する、そう言う期待があるのに、貴方はそれを、いわば、便々と、ただ、時々思い出したように、お参りしてきただけであった。ね。けれども、たまたま、先日お参りをさして頂いた時に、私共が拝まして頂いておる神様のお心と言うか、ね。神様が、あのように、私ぐらいな者にでも、出会った時には、感動して下さったのを、こちらは気がつかなかって、ようやく、二十年も経って、今日、初めてそれが分からして頂いたとこう言う。ね。家におっても、その事を思うたら感動すると言うておられる。そこにです、初めて、一期一会と言うことが言えるのです。ね、私は、一期一会の意味は、本当に分かりはせんけれども、私は、そういう風に思うんです。ね。初めての神様の出会い。その時にです、ね。はー、あなたが親ですかとは言わなかったんです。ただ、おかげに釣られて、時々参っただけの事です。ね。二十年前の神様の感動と、二十年後に頂いた感動、ね。親、親様なればこそ、親神様なればこそ、初めて、親様の心が分かったと感動した。ね。そういう時を、私は、一期一会と言うのじゃなかろうかとこう思うのです。にわの口を外へ出てみよ。空が神、下が神と言うように、ただ、観念的に、あんた達は、どげな神様を拝みよるかと。天地の親神様たい。天地を拝みよる、金光大神のお取次ぎを頂いてと言うておる間はです。ね。拝みよろばってん、それは、おかげを頂くから拝みよるだけの事であって、ね。親よ、子よと言うような、私は、名乗りあいをしていない時だと。ね。そこで、そういう、例えば、ね。ここんところに至ってまいりますとです。もう、信心と言うものはもう、とにかく、うー、するとか、せんとかというものじゃないです。ね。例え、肉親の親が、どんなにお前は勘当すると言うてもです。昨日、一昨日でした。ある若い、えー、青年の方が、あー、この人と一緒になると言うてその、ところが親が反対。婿さんのほうが若いんですよ。まあだ、青年祭もきとらん。ね。今日は、親から勘当された。お前がそんなこと言うなら、お前はもう勘当だと言われたから、私はもう出てきました。それで、その娘さんと一緒に、それで、今から福岡にもう、なんか仕事があるんですかち。なか。ただ、自分が少しばっかり、手元あった金を持ってきて出来とるだけ。もうだから、親でもない、子でもないと言われたから、もう、親のところには帰らんと。それでその、娘さん連れて福岡に行こうと言ったけれども、お母さんが、ここにご神縁のある方ですから、ね。そう言う無茶な事したって出来んと。とにかく、私が参りよるところへ、一遍行きなさいと言うてその。その娘も、また娘です。もう、家おったっちゃ、ガタガタ、あんたどんが言うけんで、私は、この人と一緒に福岡に行くと言うてから、片一方はまだ勘当しとる、勘当という事はないけれども、もう、出て行こうとこういうのである。ね、その、ね。如何にね。親がお前のようなものは勘当だと言うても、それはね、あんたがかわゆうてたまらんからの勘当なんだよと。おそらく今頃は、両親が泣きござろうと、私申しました。勘当するち言うたら、ね。ちった、本気で、かと思うたら、勘当すると言うたら、良か幸いで、ほんなら私は出て行こうと出て行った。いうようにですね。本当の、例えば、親子というものは、勘当する、されたと言うてもです。それで、縁が切れるわけにはいかんのです。ね。そして、例えば、ほんなら、詫びなら詫びを入れて、帰るならば、それこそ、親の喜びというものは、ね。その子供じゃ分からん。それこそ、子供を持って、合点しなければ分からないようにですね。私共と、神様との間の、いわば、係わり合いというかね、続柄と言うもの、ね。関係というものがです。ね。初めて、その一期一会にあったときです。ね。神様も、ね。かわいい氏子として、ね。さあ、これからお前が助かっていけるぞと、私共は、それが気が付かん。ただ、二十年もお参りしとるけれども、いわば、本気にならなきゃ分からんから、本気になれと言うてあるけれども、本気にはなれないで、二十年間、便々と続けては来たけれども、まあだ、親よ子よというところまでは行ってないけれども、ね。神様なればこそ、親神様なればこそ、と、いわば、氏子が感動する時です。初めて、神様との繋がりと言うものが、本当なものになってくる、密なる物になってくる。ね。もう、そこに、親よ、子よという係わり合いが、いわゆる、信心を止めるとか、止めないとか、するとかせんとかち言う事じゃないんです。
私は、毎朝、朝の御祈念、起きたらすぐ、ここへ出てまいります。だから、四時前に出て見えとる方は、私がここで、天地を遥拝しよるのを、ご覧になることが出来ると思うんです。ね。天地を拝ましてもらう。ね。なんと言うでしょうかねえ。天地の息吹とでも申しましょうか。本当に、自分の家の中じゃ分からん。家の中じゃ味得ない、目の当りに天地を眺める。黒々とした大地を拝む。ね。空に瞬いておる星を拝む。ね。その、(手を叩く)っと、拍手してから、天地を拝まして頂くときにです。いわゆる、天地の、その、息吹と言うかね、えー、エレキとこういいますね、あの、エレキバンドなんて言うの、エレキ。天地が、一つの電気体のようなものであるなら、その、電気のようなものがですね。私の五体に、この合掌しておる、この指先からね。入ってくるような感動を覚えます、毎朝。神に会いたいと思えば、庭の口へ出てみよ。空が神、下が神。出ただけで見た天地は、それは、そのまま、観念の神である。はー、金光教で言うとる神ちは、これを神ち言いよるとばいなと、言うだけのことである。けれども、それを、拍手して拝むという事になる時にです。初めて、その天地の息吹に触れることが出来る。ね。息吹に触れることが出来る。皆さん、実行してごらんなさい。ね。なんとも言えん、その、天地の、ま、心というか。いわば、心と言うよりも、その、んー、ね。やはり、天地の息吹と言う言葉が一番適当でしょうねえ。そこにです、ね。天地の、いわば、電流が、私の、そらもう、何時もかつもお守りを頂いておるのですよ。床の中におっても、拝んでおる神様なんですけれども、やはり、ここまで出て、天地を拝ませて頂くときにです。初めて感ずる、その感動とやらは。ですから、私は、おかげで眠たくない。ね。色々な御祈念、三時半に出てまいりまして、三時半から、四時の間の、三十分間という、ここでじっと、控えで待たせていただいておる。四時の時間の来るのを待たせて頂いておる、その、時間と言うものはもう、私の一日のうちで、一番、有難い時である。それにはもう、純粋なもの。おかげを頂くけん有難いとか。何を見たけん、聞いたけん有難いと言うものではない。心の底から、芯の底からです。ね。今日が、更なものとしていただけている、一番初めが、私の、ここの、天地を拝する、それからなんです。だから、御祈念のときに眠気の来るはずがなか。そういう、感動を持って御祈念するのですから。ね。本当言うたらですよね、この、例えば肌が大地に着く、例えば、私は、そういう意味合いで、お百姓さんは素晴らしいと。ね。いつもその、大地に取り組んでおられる。ね。ここの、例えば、ここは、まあ、神園ですね。神様の庭として、私は、ここは、この庭は大事にするんですけれども、ここへ、もう一つ座ってから、こうやって、もう、尻まくっといてから、腹が地に着くように、ね。大地に、どんずわって御祈念したら、本当に、天地の芯と何か繋がる様なものを、感じはせんかと思うぐらいにあります。直に。目の当たりに見ただけでもそうなんだ。ね。だから、神に会おうと思えば、庭の口を外へ出てみよ。空が神、下が神だ。だから、そうして観念的に分かったらです。ああー、そうかなあと、観念的に分かったらです、それを、もう、観念ではない、実際に行の上に現してです。その天地を拝むところから、始めなければ、金光様のご信心は分からんと、私は思う。ね。初めのところを私は、一期一会と言う言葉を持って、私共と、神様との出会い、ね。神様の感動と同時に、私共が、ね。親なればこそ、神様なればこそと感動する。初めて一期一会である。ね。一生一度、一生に一度、神様との繋がりができる。そこから、私共の、真の信心の、おー、頂けれる、いわば、様々なものが、そこから生まれる。ただ、ご神縁を頂いて、拝みよります、参りよりますというだけではいけないのですね。それには、やはり、神様がです、ね。家繁盛、子孫繁盛の道を教えると、金光大神が仰るように、その道を習うて、道を行じなければ駄目、ね。そこからです、例えば、東さんのお母さんは、たまたま、お参りをさして頂いておって、二十年ぶりに、初めて、神様に会うた気がすると言うておられるように、ね。神様は、二十年間もの間、東文江という人に、色々と働きかけられておられる。昨日の話を聞いてみると。お夢の中にでも、実際起きてくる問題の中にでも。けれども、それはそれで気付かなかったけれど、ね。たまたまお参りしようとって、御理解を受けた時にです。初めて、はー、神様なればこそ、親神様なればこそと、初めて分かったと言う。その分かった時に、神様との繋がりが出来た。感動の、感動を持って、親子の対面が本当に出来た。さあ、これからというものは、切ることは出来んとです。親子の、もう出会ったんですから。離しはせん、どっちからも。ね。そういう意味合いにおいて、私共が、神様を分からしてもらう。ね。同時に、庭の口を外へ出てみよとこう。これは、観念的な、神を教えておられる。だから、その教えられたのですから、その次にはどういう事になってくるかと。はー、そうですか。空が神、下が神ですかと、いうことが分かったものならです。ほんならその、拝むところから始めなければいけない事が分かるでしょう。ね。
昔の、おー、椛目の、早々の時分に、お参りをして、朝の御祈念なんかにお参りをしておった人は、あー、知っておりますよね。もう、一番初めは、拝むとこの、大かこと、大かこと、ばさらかあったですね、神様は。神様がお祭りしてある、霊神様がお祭りしてある、金光様のお写真が八足の上にお祭りしてある。そして、霊神様である。ほっでもう、あー、当為に参ると、もう、四箇所も拝まにゃならん。それに、まいっちょ、一番、一番初めだったですね。これはもう、障子がこう開けると、もう、開けたところが庭であった。そして、低い庭でしたから、もう、ここに、手がこうして、つまづくぐらいのところであった。そして、障子を開けて、ね。天地を私が拝む。そして、私は、天地が生きてござる、天地が生きてござる、天地が生きてござる、天地が生きてござるち。それを繰り返して拝んだ。天地が生きてござる。ね。本当に、あの狭い椛目のお広前がですね。神様のその息吹で一杯になる、そこから、朝の御祈念が始まるというようなことでしたね。ですから、皆さん一つ、天地が生きてござる事実をです。どうでも分からせて頂くために、ね。天地が生きてござる、天地が生きてござる、天地が生きてござる。私は、金光様、天地乃親神様と言う前に、先ず、生きてござる神様を、ね。実証しながらです。私は拝まなければ、大したことはなかと思いますね。たーだ、天地金乃神様と言うただけじゃいかん。
今度の、二十日が、大祭を一月前にしての、総会が、まあ、久々に今度は、あー、外で、えー、総会が開かれることに話が決定しあたりしております。信徒会のほうから、あー、補助の、補助金が出ます。熊本の阿蘇行きですから、相当の金がかかりますでしょうけれども、おー、まあ、安くて行けれるわけです。そしてあの、草千里ていうあの、申します、うー、広々とした野原があるですね、阿蘇のふもとに。そこで、会合をしよう、そこで会を持とうという事に話が決っております。勿論その、見晴らしの素晴らしいことも、そうでしょうけれども、なんと言うても、阿蘇の魅力は、やはり、噴火口です。私はもう、ずいぶんあちらこちらに連れて行って頂きましたけれどもね。阿蘇にいった時の感動と言うものは、もう、ほかで見ることは、味わうことは出来ませんでした、あの感動は。だから、阿蘇には、もう一遍登りたいと今でも思うております。それが幸い、皆さん、その事を、まあ、どういうところから阿蘇に決ったか知らんけれども、阿蘇でという事になりましたんですけれども、ね。丁度、あの時には、えー、もう、十年ぐらい前でした。えー、菊栄会の方達が中心で、総代幹部の方達も、みんな一緒で、えー、自家用車、五台か六台かで、行くようになったんです。前の日、えー、一日、二日前から、雪降りでした。私共が、明日から、阿蘇にいくという事を、田主丸の小野先生が聞いておりましてですね。その、丁度、朝の御祈念が終わった頃電話が架かってきた。先生方は、今日は、阿蘇行きですけども、阿蘇は、今、なんかな、ラジオで聞きますと、いわゆる、大雪のために、えー、交通止めになっておる。で、もう、行かれても同じですから、その、計画を変えなさったがいいですよと言うてから、あの、通知をしていただいた。そして、神様にお願いさしていただいたら、まあ、それでもいいと言うことで、参りました。私共が行く、ほんなちょっと前に、その、登山口が、こう、通行止めになっとったのが開かれたんですね。もう、それこそ、(はくがいがい?)、あの広い、いわゆる、草千里がもう、とにかく、そのー、白雪を頂いた、いわゆる、阿蘇であります。そらもう、ほんとにもう、だーれも通ってないところを、つう、そこが取れたばっかりのとこでしたから。ようやく道が、自動車で行けれるという程度に、ね。そん時に行った方達は、みんなご承知でしょうけれどもね。阿蘇の、阿蘇に住んでおる人達が、あそこに係りの人達がですね。永年、ここに勤めておるけれども、こういう阿蘇は始めてだち言うてある。もう、あの、噴火の頃の、一番底から見えたんです。して、煙がまっすぐに上がってですね。そらもう、ほんとに、私はあそこへ立って、ほんとに泣きたいような感動を覚えました。なるほど、天地が生きてござる。これが、何千年、何万年か知らんけれどもです。あのような噴煙を噴き続けておる。天地が生きてござる印なのだ。天地はたぎってござる。どのようにたぎってござるか。氏子を助けてやりたい。氏子を幸せにしてやりたい。どうぞ、信心しておかげを受けてくれよという願いがです。たぎるようなものがあるんだと、天地の中には。ね。天地が生きてござる印なんだと。天地が生きてござる、天地が生きてござる、天地が生きてござると、それを、私共のこの五体で感じられる。ね。これはもう、理屈じゃないのです。その庭の口を外へ出てみよ。空が神、下が神と仰せられるから、ああそうですかと言うとるだけでは、観念の神なのです。分かるだけの神なのです。ですから、ああそう、神様ですかと分かったら、その神様を拝むところから始めなければいけません。ね。そこから、天地の息吹に触れることが出来、天地の、おー、エレキが私共の、おー、ね。五体の中に流れ込んでくるような思い、ね。そう言う体験をですね、頂かしてもらう。はじめて、空が神、下が神と言う実感が、しかも、そういう、勢いと言うかね、たぎるような思い、願いを持って、私共の上に願いをかけておって下さる、思いをかけておって下さる神様を、私共は拝んでおるんだという事が、初めて、ね。頭の上に分かったわけで、観念的に分かったではなくて、もう、言葉にも出せないほどにです、ね。自分の心でそれを感じ、受け止めることが出来る。そういうおかげを頂きたいもんだと思います。為にはまず、庭の口を外へ出てみよと。家ん中じゃ分からん。ね。そしてその、天地を拝ませてもらうと言うところから、始めなければならんと思うですよね。どうぞ。